東へ東へ・・・目的地は、ずばり『日本』!
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ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルという町には世界遺産に登録された橋と街並みがあります。



けれど、ここも、1990年代の戦争で激戦区だったといわれている場所でもあります。





バスターミナルを降りると、何人もの宿の客引きが声をかけてきた。
そのうちの一軒のおばちゃんの宿にお世話になることにした。



おばちゃんの運転で宿まで向かう途中、
『ここが戦争で犠牲になった人たちのお墓だよ』
『この廃墟みたいな建物は、かつて大きなホテルだったんだよ』
と説明してくれた。

でも、言葉が出なかった。









モスタルは、サラエボ以上に激戦の痕が残っている。
多分、比にならないほど。


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遺跡と化した廃墟がいくつも残っている。

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ただ、簡単なフェンスで近づかないように包囲してあるだけ。
数えきれない数の銃痕が、その悲惨さを訴えている。

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よく見ると、建物の中にまで銃痕が見える。







想像を絶する。







世界遺産に登録された街並みにも、銃痕の残る家が普通に存在し、普通に使われている。

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そのまま使い続けられる建物
銃痕をコンクリートでふさいで使い続けられる建物
新しく作られた建物
そして、そのまま廃墟として存在している建物



それらが共存する町。







戦争の被害で、世界遺産の橋も破壊されたそうだ。
けれど、ユネスコの協力もあり、再建され、再び世界遺産に登録されている。

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橋の周辺・旧市街は、
ツーリスティックと言えるほど。
土産物屋が立ち並び、ユーロやクロアチアの紙幣も使え、英語の通用度も半端ない。

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レストランは、サラエボの旧市街のレストランより高い。





けれど、廃墟の街になるよりまし。
世界遺産の街として再びスタートを切っている。







街ですれ違う、現地の人
街で接すことができた、現地の人。

多くの人は、あの戦争を経験し知っているだろう。
家族を失った人がいるかもしれない。
友達を失った人がいるかもしれない。
多くの傷を負ったまま、生きているだろう。




それでも私が会った現地の人は、皆元気だし、笑顔だったし、優しかった。


寄ってきた物乞いにコインを渡している人が、この国には多い。
他のヨーロッパ諸国ではほとんど見ることができなかった光景だ。








当初、ボスニア・ヘルツェゴビナには来る予定ではなかった。
でも、実際の戦争の傷跡を、街や人々の中に残る傷跡を見ことができ、
ここに来てよかったと、今では強く思っている。

戦争は、きっと、他人事では、自分とは無縁のことでなければならない。
でも、きっと、世界を見てみると、現状、他人事であってはならないような気もする。


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[2012/09/01 07:58] | ボスニア・ヘルツェゴビナ
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先日のロンドンオリンピック、盛り上がったようですね。

私も夜中にサッカーの日本戦をたまたまテレビで見ていた時に
ついつい夢中に見入ってしまってました。








今をさかのぼること、28年前。
私が生まれた年ですが、
冬季オリンピックが開催されたのはボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ。
現在、その会場跡地がどうなっているかご存じですか?







そこは今、こうなっています。







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そう、これはすべてお墓。





1990年代の内戦で多くの市民が犠牲となった。
お墓には特に1992~1995年に亡くなられた人のものが圧倒的に多い。



もともと多民族・多宗教のこの国で、他宗教同士の結婚も当たり前のようにあったこの国は、まさに理想国家であったはず。
この戦争は民族同士の争い、
民族の区別は宗教の区別であったというから
つまりは宗教の対立、宗教戦争。







このあたりの歴史は、イタリアを出てから勉強してるけど、難しすぎてよくわからない。





でも、ただ確実に言えるのは、
『ここで戦争があり、多くの犠牲者がでた』ということ。





サラエボの町はキリスト教とイスラム教が共存する不思議な町だった。



駅の近くの大通りには『スナイパー通り』と呼ばれる大通りがある。
当時、ここで動くものは、大人・子供、男女関係なく撃たれたらしい。
ここを少しだけ歩いてみた。

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ここを歩くだけで殺されたなんて、まったく想像できない。
今は、きれいなビルやショッピングモールもある素敵な通りだ。
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けれど歩くと時折銃痕と思われる穴のある建物をいくつか見ることができた。

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1992年といえば、まだ20年ほど前のこと。
ここから数年間の激戦があったのだから、記憶にある人もいるかもしれない。
私は当時、小学生。
『ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦』というキーワードは知っていても、
正直それについてよく知らない。




私と同じ年に生まれ、1992年で亡くなった方のお墓を見つけた。
彼はおそらく戦争で生涯を終えることとなり、
一方私は生きている。
そしてここに来ることができた。

彼は当時、8歳ごろ。
お墓は一回りも二回りも小さかった。






人が、人の手で、人の命を奪うことがあってはならないと、
涙が止まらなかった。

[2012/09/01 06:34] | ボスニア・ヘルツェゴビナ
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